大佛・大圓寺 32世住職  波多野 聖雄

 私事で大変恐縮ですが、私の家系は平安時代からの侍で、天保9年、ある事情により僧侶となり以来、3代4人 浄土宗の僧侶を続けているものです。


 私も僧侶となる運命的なものは考えてはいましたが、高校教師、企業の営業マン、病院の理事等自坊に帰ったのは 40才になってからでございます。仏教の御飯で育って住職にさせて戴いてはいるものの、どうしたらいいのか、 何をすべきか迷ったものです。御霊屋や庫裡を改築し、立派な山門を万行寺様より譲り受け、寺としての一応の体裁も整えましたが、 まだ何か心の片隅には、仏恩に報いることをしなければと常に追いかけられる気持ちでした。


 昭和40年代納骨堂の建築ブームが訪れました。私の寺も総代世話人より答申があり、まあ100軒分の納骨堂を 造れば間に合うだろうと言う意見が大勢を占めていました。
 私は学生時代、奈良や京都の古寺巡礼をして、あの寺院のたたずまいに大変感動しておりました。 そして亀井勝一郎氏や和辻哲郎博士が、かっては左翼的思想の持ち主ではあったはずですが「古寺巡礼」にみられるように 日本人の原点ともいえる古代佛教建築の華である五重塔にのめりこまれていった気持ちが痛い程判りました。

 福岡県には2372ヶ寺ありながら、なぜ五重塔は無いのか。古代大宰府の観世音寺は別として福岡市にはその記録も無く、唯、 大圓寺の故地である福岡市早良区西入部の広大な大圓寺跡の字地名が「黒塔」「白塔」であったことにより、その痕跡を想像するしかありませんでした。 当時、九州には佐賀県基山に元九電社長の佐藤篤二郎氏が建立した「鉄筋コンクリート製」の五重塔があるのみでした。

 私は将来の都市化、核家族化を見越して、大納骨堂を建立しようと考え、世話人に話しましたが、180軒の檀家寺では必要なしとの意見でした。 それでは何とか自力でと思いましたが、非力はどうしようもありませんでした。銀行から借入金をするにしても、総代世話人の 個人保証、又は寺院境内で売却できる別筆の土地がなければ担保にならないからと貸してはくれません。それでは住職自身が財力 を蓄える外はありません。そして日夜、可能性を考えました。

 昭和45年大阪万博の古川パビリオンの七重塔の払下げ3500万円も検討しましたが高嶺の花でした。昭和49年、 尼崎市日蓮宗本興寺が2億円かけて木造三重塔を作り、その地下に納骨堂を作って、「この塔を見上げて、市民がほっと心が安らかに なってくれれば私の願いは達成されたものと同じです。」と言う有原日耕住職の言葉を聞いてから、実現の可能性と「機縁」の 大切さを教えて戴きました。

 私は高僧でもなく学問僧でもなく、ましてや霊感もない凡僧です。しかし、それなりに考え抜きました。昭和50年3月1日、 2mの真紅の蛇が本道裏の五重塔建立予定地にもぐりこむ夢を見ました。その日注文していた五重塔の文献がどっと着荷しました。 私の腹は塔建立にかたまっていきました。

 昭和51年歴史部会で韓国の仏跡参拝に招待され、韓国国立民族博物館の3階建の上に法住寺の五重塔が建っているのを見た時、 大圓寺の五重塔はこれだと合点しました。
 自分自身の実力をつけるために用意していた勤務時代の企業の持ち株や退職金をつぎこんだ土地が少しづつ値上がりし始めました。 試行錯誤しながら、従来のロッカー型式の納骨堂ではなく、石の墓と同じ新型の納骨堂、それも大きさも大きく、ゆったりとして豪華な 雰囲気にし、それだけでなく分骨塔、納経塔、小水子地蔵、戦場別の慰霊塔、各家の永代位牌堂、飢餓疫病死霊、公害事故死霊、 航空海難事故死霊、各企業物故者位牌堂、屋上墓地などを考えました。
 総代世話人会を何回も開きましたが、智恩院にも無い五重塔は必要なく、納骨堂も小さな建物で結構であると一笑に付されました。 総代さんの引退を待つしか方法はありませんでした。

 紆余曲折の後、昭和53年末に銀行との話もつき、清水建設の設計により施工できる段取りとなりました。昭和54年1月22日、 透き通るような晴天の日、地鎮式を挙行することが出来た事は何よりの喜びでしたが、問題は山積みの状態でした。
 清水建設の設計では私の意向を受けて、鉄筋三階建の塔院の上に、鉄筋コンクリートの五重塔(総高36.5m)を建てる見事なもので、 下の三階建の塔院は、国宝東大寺正倉院の綱封蔵をモデルに、塔は国宝法隆寺の五重塔をモデルとした私の理想とする昭和の新五重塔でした。

 ともかく昭和54年9月23日に塔院は完成しました。塔は時期を見てということで先送りとなりました。
 日本で初めての屋内墓所ということで自画自賛した納骨堂も、一般にはどんなものであるか理解されず、そのPRには大変苦労しました。 宣伝も経費をかけない為に自分自身でデザインをして新聞、その他の広告に出しました。「お寺が新聞に広告を出すとは」との批判の声も聞かれました。

 昭和60年2月、地元の工務店を使って五重塔をと勧められ、木造百十尺塔を宮大工に頼みましたが、昭和61年倒産し、西日本新聞の三面記事になりました。 それからは「忍辱」の一時期でした。檀信徒はそうでもなかったのですが、お寺方の批判は相当なものだったようです。しかし、私は、 仏、菩薩、諸天、善神のご加護を深く信じ、必ず有識者の援助があると確信していました。それ故に挫折感も味わわず、 健康でいられた由縁ではないかと思いますし、金銭的な迷惑も外部に全くかけなくてすみました。
 「機縁」とは大事なものです。田村圓澄九大名誉教授の精神的援助や、多くの方の陰の援助もありました。何よりも 「眼には見えない霊的な援助」があり、仏様は常に私の知遇仏であり、不離仏であるという感を強くせざるを得ませんでした。

 五重塔は、鉄筋コンクリート製のものと木材で造るものとがあり、木材も外国産と国内産の2種、外国産木材を使った場合、 鉄筋コンクリート製の約3倍、国内産木材だと約5倍近くかかることが判りました。私は何とか国内産の木材で建立と考えていました。 しかも塩害や水に強く「千年」もてる建物と願っていましたところ、石川県能登半島産の「ひば」が内陸のひばよりも塩水風雪に 強い事をはせがわ仏具店の三好氏から聞き、「档(あて)」という名のその木に執着を持つに至りました。

 世は平成となりましたが、なかなか着工のめどはつきません。清水建設、竹中工務店、鹿島建設に一応86尺木造五重塔の見積もりをお願いしました。 これも機縁でしょうが、武田正鹿島建設九州支店次長の肝煎りで建築を請け負ってくれることになりました。設計は 木造塔以来の付き合いの猪ケ倉安雄一級建築士で、五重塔に関しては真摯な態度でよく勉強していただき、又、私の意向を充分に 加味して平成の新塔に情熱を傾けてくれました。

 実際の木工事は、聖徳太子が四天王寺、法隆寺を建立するために大陸より招聘した四棟梁の内の筆頭棟梁、39代目金剛利隆氏の 金剛組(創立:飛鳥時代)が担当し、私の最も念願とした飛鳥白鳳時代の伝統が平成の世に活かされることに、この上もなく感激した次第です。 木材も願いどおり能登半島の「档」を2つの山から厳選して製材しました。

 平成5年3月副住職も決定し、銀行との借入金の話し合いもつき、平成5年11月1日、ついに五重塔の地鎮起工式を挙行 するに至りました。発願して20数年、波乱万丈の年月でした。当日はうすら寒い曇天でしたが、一瞬雲間から陽光が差したことを記憶しています。
 鹿島建設の施工はスムーズにはかどっていきました。しかし、施工期間中に台風19号、雲仙普賢岳、阪神大震災等が起こった結果、 風速60mから風速130mへ、マグニチュード6からマグニチュード9以上に耐えられるよう変更され、防火シャッター等も補強されました。

 平成7年5月下旬に外観の全貌が完成しました。中に奉安する「仏舎利」も整っています。福岡ドームやシーホークホテルをバックに 中央区に屹立するベンガラ色の五重塔、古代ペルシャ風の天女が舞う黄金の相輪。人々はどう感じてくれるでしょうか。白けて、殺伐とした 世相の今、五重塔の美しさにひかれて「凍れる音楽」と称したブルノー・タウトのような人物がでるでしょうか? 一人でも塔を眺めて「心休まる人」がでれば私の所期の目的の1つである「仏教に機縁」をつくることが達成されるのではないかと思われます。

 「1人では何もできない。しかし、1人が始めなければ何も完成しない」という座右の銘をおいて後十年、75歳迄、仏教的機縁をつくり続けてゆきたいと思っています。

『木造三間五重塔姿』:二重基檀 組物三手先 二軒繁垂木 銅板葺 亜鉛鍍金鉄円柱芯
総高38.358m、塔身26.518m

福岡で初めての五重塔に千年の祈りを込めて 合掌三拝