大佛・大圓寺 32世住職  波多野 聖雄

 福岡に大仏があると云っても余り御存知の方はいない。もし耳にされた方があったにしても、 せいぜい等身の2倍くらいの大きさを想像されている方が大変多い。「筑前国続風土記附録」には『巨像』という表現がとられている。 仏頂迄3.95m。総高4.85m、本堂内に入り大仏に面と向かって坐して拝する時、その巨大さに圧倒される思いがするのである。 別に秘仏でもなく自由にお参り出来る仏様である。文化財関係の調査も一度もあったことがないのが現状である。

 江戸時代の中期、大圓寺の第9代に愍誉(ミンニョ)上人という方が在住されて居られた。まだ子供の頃よく遊んだ藤崎の千眼時の大きな 仏像に感銘を受けて、その頃から大仏造立の志を立てられたと伝えられている。第8代清誉上人によって得度され僧侶の道を歩かれるようになった。 地元での修行、江戸での遊学修行中も各地を巡しゃくして、大きな仏像がまつってあると聞けば必ず参詣されたと伝えられている。

 各地の寺院の住職を経てやがて大圓寺の住職になられたのである。(宝暦14年、西暦1764年)

 住職になられてからはいよいよ大仏建立の志が固まっていったようである。しかしその当時の大圓寺は士族寺とはいえ中下級武士が多く、 本堂もくずれかかっている状況の下では多大の寄附は望むべくもなく、唯心中におさめる以外には手はなかったようである。

 たまたま肥前の西念寺の住職法誉上人が48日の念仏行の折りに滞留説法されたことがあった。その時愍誉上人の志を聞かれ 深く感銘されたという。その後博多の一行寺に法誉上人が説法のために逗留中、柳町に居住する近江屋平蔵という仏師に会われることがあった。 四方山話の後に、平蔵が云うには小仏像は多く造るけれども大仏は造ったことがない。仏師として一度は大仏を造りたいのが念願であると、 これを聞かれた法誉上人は愍誉上人に連絡をされて大仏造立の御縁を結ばれたのであった。ついに決断された愍誉上人は 材料集めから始められねばならなかった。表粕屋郡別府村(現志免町 別府)にあった楠(樟)の巨大な神木を、山奉行尾崎氏、 近藤氏の世話で入手し、これを大圓寺の末寺であった箱崎松原の自性院に移して作業を開始したのである。やがて頭部が完成するに至ったが、 当時倒壊寸前の本堂の建立のこともあり、大仏は頭部完成のみで資金が続かずついに作業を中止せざるを得なくなってしまった。 その間の愍誉上人の心境や如何にと計り知れないものがある。

 その当時の福岡の浄土宗の寺院の序列というものがあった。その筆頭である少林寺に問題が起り住職が更迭されてしまった。 その関係で、円応寺住職が少林寺へ、大圓寺住職が円応寺へと昇格して行き愍誉上人も大圓寺から円応寺の住職にかわられたのである。 本堂は建ったものの、かんじんの大仏様は頭を残して未完成のまま放置せざるを得なかった中での移転であり、 心中如何ばかりであったろうかと想像されるのである。

 しかし『縁』というものはどこで出きるものかは我々の想像の外にあるものである。
 円応寺の檀家に平山久助重堅という黒田藩御用米商がいた。札差しを兼ねる。今の銀行屋でもある大身代の持ち主であった。 その1人息子「戒名、月桂池遊円寿童子」が8才で急死してしまったのである。両親の嘆きようは如何ばかりであったろうかと思われる。 愍誉上人はその悲しみを転化して菩提を弔うべく告論されたのであろうと思われる。久助重堅は家が絶えることも思い、 息子並びに平山家永代供養のためにも、又恵まれない人々が追善供養を受けられるためにも、又愍誉上人は42才厄除けの大願のためにも、 大仏建立の継続を心良く承知されたのである。

 作業所を宮内町(博多区中呉服町)の一行寺に移し、近江屋平蔵が再びノミを振い始めたのである。平蔵の居住地柳町は江戸時代には、 「遊廓」として大変にぎわった所で、今の博多区大浜の地に当たる。平蔵が仏像を造る一行寺の隣の選択寺は遊女の駆け込み寺であったという。 名もなき遊女達は、血と汗でかせいだわずかばかりの金品を持って、自分の後生をその大仏様に祈ったという。 住職はその遊女達のシコ名や、多く寄せられる善意の寄附者の名前を、その造立中の大仏の素肌に念仏と共に書き込んだと記されている。

 やがて安永5年(1776年)、アメリカ独立と同じ年に大仏は完成する。旧4月19日、博多の石堂橋より六町筋(当時のメインストリート) を経て大圓寺ノ町の大圓寺まで、牛車にお乗せして運ぶことになった。

 牛車の紅白に撚った先綱には、カムロと柳町の花(オイ)ランが当り、寺院方も荘厳な装束をつけて行道し、道中は町奉行、 寺社奉行総出で町内町筋の整理警戒に当り、前代未聞の出来事であったという。

 大圓寺には住職始め、福岡、博多門中寺院総出で、又、平山家一統出迎える中を到着され設置のあとは数日間、門中寺院総出で 一日一千巻の阿弥陀経を読誦しその落慶大法要が行われたと記されている。

 以来大圓寺町の大仏として一部の人に親しまれて来た、昭和11年1月9日、本堂、御霊屋の全焼の時も、楠ノ木であるにもかかわらず 焼けずにあった為に、「焼けずの大仏」として多くの人たちの驚異の的となった。その後に失った光脊は昭和51年5月の大仏 開眼200周年記念大法要の時に新しい二重円光脊として復活をみたのである。昭和11年の時の修復仏師は坪井金之助氏である。