大圓寺のご本尊様は、総高4.85mの大仏様(阿弥陀如来坐像)です

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本堂・ご本尊TEMPLE

大仏殿ご案内

ご本尊 阿弥陀如来坐像

福岡に大仏様があることをご存知の方は少ないでしょう。通称「大佛大圓寺」の名のとおり、大圓寺のご本尊様は、総高4.85mの大仏様です。
この美しい大仏様(阿弥陀如来坐像)は、秘仏というわけではなく、自由にお参りできる仏様です。

阿彌陀如来坐像 あみだにょらいざぞう (丈六仏)
阿彌陀如来坐像
印相 廣大摩尼秘密印(極楽浄土での説法の印相)
総高 4.85m(仏頂まで3.95m)
材質 樟(1本を寄木とする)粕屋郡志免町別府産
作者 近江屋平蔵
安永5年(1776年)4月18日 落成式(造立年7ヵ年)
昭和11年1月9日 本堂、御霊屋を全焼するも焼けずに残り、「不燃(やけず)の大仏」と多くの人たちの驚異の的となる
昭和12年(1937年) 修理
昭和51年(1976年) 大仏開眼二百周年記念大法要のときに、昭和11年に焼失した光背が復活

ご本尊紹介

福岡の大仏様

福岡の大圓寺に大仏様があることは、あまり知られていないようです。もし耳にされていても、ほとんどの方がせいぜい等身の2倍くらいの大きさを想像されています。
「筑前国続風土記附録」には『巨像』という表現がとられており、仏頂まで3.95m、総高4.85m。
本堂内に入り、大仏様に面と向かって坐して拝するとき、その巨大さに圧倒される思いがします。
秘仏ではなく、自由にお参りできる仏様です。

愍誉上人の思い

江戸時代の中期、大圓寺に第9代愍誉(ミンニョ)上人という方が在住して居られました。まだ子供のころによく遊んだ藤崎にある千眼寺の大きな仏像に感銘を受けて、そのころから大仏様造立の志を立てられたと伝えられています。第八代清誉上人によって得度された愍誉上人は、僧侶の道を歩かれるようになりました。地元での修行、江戸での遊学修行中も各地を巡しゃくして、大きな仏像がまつってあると聞けば必ず参詣されたと伝えられています。
愍誉上人は、各地の寺院の住職を経て、やがて大圓寺の住職になられました(宝暦14年、西暦1764年)。
住職になられてからは、いよいよ大仏様造立の志が固まっていったようです。しかし、その当時の大圓寺は士族寺とはいえ中下級武士が多く、本堂も崩れかかっている状況でした。多大な寄附は望むべくもなく、ただ心中におさめる以外に手はなかったようです。

ご本尊

愍誉上人と近江屋平蔵の出会い

あるとき、肥前にある西念寺の住職法誉上人が、48日の念仏行の折りに滞留説法されたことがありました。
そのとき愍誉上人の志を聞かれ、法誉上人は深く感銘を受けたそうです。その後、法誉上人が博多の一行寺に説法のために逗留中、柳町に居住する近江屋平蔵という仏師に会われました。四方山話のあとに、平蔵は「小仏像は多く造るけれども大仏は造ったことがない。仏師として一度は大仏を造りたいのが念願である」と言ったそうです。これを聞かれた法誉上人は、愍誉上人に連絡されて大仏様造立の御縁を結ばれました。ついに決断された愍誉上人ですが、材料集めから始めねばなりませんでした。表粕屋郡別府村(現志免町別府)にあった樟(楠)の巨大な神木を、山奉行尾崎氏、近藤氏の世話で入手し、これを大圓寺の末寺であった箱崎松原の自性院に移して作業を開始したのです。やがて頭部が完成するにいたりましたが、当時倒壊寸前の本堂の建立のこともあり、大仏様は頭部完成のみで資金が続かずついに作業を中止せざるをえなくなってしまいました。その間の愍誉上人の心境は計り知れないものがあります。
その当時、福岡の浄土宗には寺院の序列というものがありました。その筆頭である少林寺に問題が起り、住職が更迭されてしまいました。その関係で、円応寺住職が少林寺へ、大圓寺住職が円応寺へと昇格し、愍誉上人も大圓寺から円応寺の住職に変わられたのです。本堂は建ったものの、肝心の大仏様は頭を残して未完成のまま放置せざるを得なかった中での移転であり、心中如何ばかりであったろうかと想像されます。

大仏様と縁

しかし『縁』というものがどこでできるかは、我々の想像の外にあるもののようです。
円応寺の檀家に、平山久助重堅という黒田藩御用米商がいました。今の銀行屋でもある札差も兼ねており、大身代の持ち主でした。その一人息子「戒名、月桂池遊円寿童子」が8才で急死してしまったのです。
両親の嘆きようは如何ばかりであったでしょう。愍誉上人はその悲しみを転化して、菩提を弔うべく告論されたようです。久助重堅は家が絶えることを思い、息子ならびに平山家永代供養のため、また恵まれない人々が追善供養を受けられるよう、愍誉上人は42才厄除けの大願のためにも、大仏様造立の継続を快く承知されました。
作業所を宮内町(博多区中呉服町)の一行寺に移し、近江屋平蔵が再びノミを振い始めました。平蔵の居住地柳町は、江戸時代には「遊廓」として大変にぎわった所で、今の博多区大浜の地に当たります。
平蔵が仏像を造る一行寺の隣の選択寺は、遊女の駆け込み寺だったそうです。名もなき遊女達は、血と汗で稼いだわずかばかりの金品を持って、自分の後生をその大仏様に祈ったといいます。住職はその遊女達のシコ名や、多く寄せられる善意の寄附者の名前を、その造立中の大仏様の素肌に念仏と共に書き込んだと記されています。

七ヵ年かけて完成した大仏様

やがて安永5年(1776年)、アメリカ独立と同じ年に大仏様は完成。旧歴4月19日、博多の石堂橋より六町筋(当時のメインストリート)を経て、大圓寺ノ町の大圓寺まで、牛車にお乗せして運ぶことになりました。
牛車の紅白に撚った先綱には、カムロと柳町の花(オイ)ランがあたり、寺院方も荘厳な装束をつけて行道しました。道中は町奉行や寺社奉行が総出で町内町筋の整理警戒にあたるなど、前代未聞のできごとだったそうです。
大圓寺には住職をはじめ、福岡、博多門中の寺院から人が集まりました。平山家一統を出迎える中、大仏様が到着され設置。そのあとは数日間、門中寺院総出で一日一千巻の阿弥陀経を読誦し、落慶大法要が行われたと記されています。

不燃 やけず の大仏

以来大圓寺町の大仏様として地域の人に親しまれてきました。昭和11年1月9日、本堂および御霊屋の全焼のときも、大仏様の素材は楠ノ木であるにもかかわらず焼けずにあったために、「不燃(やけず)の大仏」として多くの人たちの驚異の的となりました。このときの修復仏師は、坪井金之助氏です。のちに失った光脊は、昭和51年5月の大仏開眼200周年記念大法要のとき、新しい二重円光脊として復活をみました。

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